慶伊道彦 IVY STYLE 講座 / アイビー・ワード語

Kay こと慶伊道彦のCoffee Break

アイビー / IVY ワードだけをピックアップしてみました。中には無理やり取ってつけたようなワードもありますが、60年代当時はトレンド用語でした。

1: アイビー / IVY

元来、蔦の意味。アメリカの古い大学の建物にはツタがからんでいる。いくつか説はあるが、面白い説としては、インテリの象徴でもある象牙の塔 ”Ivory Tower” そこから、ORという?語を取り去ってIVY としたという説もあります。

2: アイビー・キャップ / IVY CAP

一枚天井のこじんまりとしたキャップで、後ろに必ずバック・ストラップがつく。無地、アイビー・ストライプ、タイ・プリント柄など。まっすぐ前かぶりに、後ろ上がりにかぶる、被り方も特徴となっている。

MENS CLUB “くろす・としゆき” コラムより引用

3: アイビー・シャツ / IVY SHIRT

衿型はボタンダウンで、前はパネル・フロント、被り式の場合はブラケット・フロント、バックをみると衿のま後ろにボタン留め、背の真ん中にボックス・プリーツ(箱ひだ) と、フックが付く。当初の生地は、オックスフォードの色無地、ブロードのアイビー・ストライプ、ギンガムチェックなどでした。

VAN OFFICIAL より引用

4: アイビー・ストライプ / IVY STRIPE

あたかも和服地の手織木綿のような渋い多彩縞。アイビー・シャツに多く用いられるが、ブレザーにもみられる。VANは、渋い三河木綿でシャツを企画

アイビー・ストライプ MENS CLUBより引用写真

5: アイビー・ストラップ / IVY STRAP

尾錠、本当はバック・ストラップという。パンツやキャップの後ろのディテールとして使われる。オーセンティック・アイビーには欠かすことのできないアクセント。

MENS CLUB より引用

6: アイビー・スラックス / IVY SLACKES

一見、パイプステム(マドラスパイプの軸) を思わせるような細身のスラックス、ディテールをみていくと、ノープリーツ、バック・ストラップ、などが特徴。

7: アイビー・タイ / IVY TIE

シルク・レップ地のレジメンタルタイやクレスト・タイ、シルク・フラードのプリントタイ、シルクの黒ニットタイなどが代表的アイビー・タイである。6.5cm幅

MENS CLUB 広告より

8: アイビー・ネック / IVY NECK

クルー・ネックの別名、アイビー・セーターの衿型は(丸衿首)が多いため、その名もアイビー・ネックと呼ぶようになった。

クルー・ネック・セーター

9: アイビー・フォールド / IVY FOLD

ポケットチーフのたたみ方の一種で、胸ポケットにフンワリと何気なく突っ込むところから、パフド・フォールドともいわれている。

アイビー・フォールド

10: アイビー・ブレザー / IVY BLAZER

アイビー型のブレザーのこと。生地は無地(紺、黒、オリーブなど) またはアイビー・ストライプ。

11: アイビー・ベルト / IVY BELT

アイビーのカレッジカラーやアイビー・ストライプ、タイ・プリントの布製ベルトで、皮革とガッチリとしたバックルを用いてある。

@azumashoutenkyotoより引用

12: アイビー・リーガー / IVY LEAGUER

アイビー転換期リーグ校の学生および卒業生のこと。俗にいう<毛並みのいいヤツ>だというニュアンスも含んでいる。

13: アイビー・リーグ / IVY LEAGUE

アメリカ東部の八大学で形成しているアメリカン・フットボールのリーグのこと。ハーバード、プリンストン、エール、ペンシルバニア、コロンビア、ダートマス、ブラウン、コーネル、各大学。

14: アイビー・リーグ・モデル / IVY LEAGUE MODEL

アイビー・リーグの学生たちが、好んで着る背広のスタイルをいう。全体に無理のないシルエットが特徴で、肩はナチュラル・ショルダー、ウエストも前ダーツのないズン胴、6~7mmのステッチがある。間隔の広い三つボタン上二つがけ。

15: アイビー・ループ / IVY LOOP

シャツ後ろのボックス・プリーツの上に挟み込まれた<吊り紐>のこと。

MENS CLUB / 穂積和夫より引用

16: アイビー・シスターズ / IVY SISTERS

メンズのアイビーを基にしたガール・スタイルだが、アイビー校と同様な女子大もあり、セブン・シスターズといわれた。バーナード・カレッジ、ブリンマー大学、マウント・ホリヨーク大学、スミス大学、ウェルズリー大学ヴァッサー大学、ラドクリフ・カレッジ、

アイビー愛好家のためのアイビー言葉尽くしでした

(この投稿は、一昨年のブログの改訂版です)

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慶伊道彦 IVY STYLE 講座 / Brooks Brothers 物語

Kayこと慶伊道彦のCoffee Break

MENS CLUBより引用

Brooks Brothers 僕たち団塊世代にとっては、ブルックスブラザーズのレシピは神様のお告げと言う時代が長らく続きました。右手にVAN, 左手にブルックスブラザーズといった具合に!

Brooks Brothers Book

当時、カタログを一冊でも持っている輩は、おおもて、お坊ちゃまの証!1ページ1ページ食い入るように、顔がくっ付くくらい仲間で近くに寄り。

カタログ、上は60年代、下は70年代 *引用写真*

僕が初めてニューヨークBB本店の重い重い扉(本当に重いのです)を押したのは、1971年。勤務先に恵まれその時代としては若い年齢で出張させていただきました。勿論、いわゆるカバン持ちとしてでしたが。当たり前なのですが販売員が全てトラディショナル・スタイルでとても上品に感じました。陳列された品々もアイビー感が圧倒的なスケールで迫り、当時はまだエスカレーターが設置されてなかったので、ワンフロア毎の階段を恐る恐る登った記憶も思い出。それらは、それまで雑誌でしか知らなかったアイビーの世界があり僕にとって革命的な出来事だった事を、今でも鮮明に覚えています。歴史的遺産のエレベーターにもビビった思い出があります。

60年代、NYマジソンAv. 本店 / 引用写真

ブルックスブラザーズ(以降はBBで) 創業は、なんと!1818年、およそ200年前 (日本では文政、大塩平八郎の乱があり、大久保利通が生まれた年、幕末前夜といったところ)

店は、チェリーストリートとキャサリンストリートの角と言う事で、現在の恐らくイーストリバーのウォーターフロントあたりになるかと。

1850年、社名をBrooks Brothersとし、例のマーク、ゴールデンフリースの誕生となります。このトレードマークは、諸説ありますが、ギリシャ神話の金の羊毛をモチーフにしたと伝わっています。

ゴールデンフリース

大躍進した理由に、陸軍、海軍の将校との関わりがあります。当時、アメリカも内戦が多く、米英戦争、メキシコ戦争、そして南北戦争と続きます。BBはその際の士官の正装用軍服を引き受けていました。おのずと士官が軍服を脱いだ後も、ブルックスブラザーズのスーツを愛用する事になります。リンカーンが暗殺された晩に着用したフロックコートはBBというのは有名な話です。

ブルックス・ブラザーズ展より

1915年、44丁目 X ブロードウェイに本丸新店、現在の 346 マジソンアヴェニュー店がオープンしました、”346” は、ブランドの一つになっています。

ところで、BBが初めて商品化したものも多いのです。社長のジョンEブルックス氏が英国でポロ観戦した際、プレーヤーのシャツ襟にボタンが付いていたことをヒントにして、POLOカラーシャツを世に出したことは有名な話ですよね、ボタンダウンシャツの誕生の話。

暑い夏のニューヨーク、紳士のスタイルに何とか清涼感をと考えて、誕生した品々も多いです。マドラスジャケットやマドラスショーツ、そしてシアサッカースーツ、ココナッツ・ストローハットもそうです。中米に多かったストローハットを都会化させました。

クラシックスタイルが基本ですが、流行にも敏感でした。ダクロンという化学素材を使ったシワになりにくいダクロン・ウーステッドスーツもそうです。当時流行りのウォッシュ&ウェアに沿った物です。”シャレード”で、Cary Grantがスーツを着たままシャワー室でシャボンをぬるシーンを思い出します。

また、BBのオリジナルのポロシャツ、ラコステと違い、襟の長いイングリッシュカラー、ボタンは4つ、素材もポリ50%コットン50%

レジメンタルタイもしかり。写真で見て、ストライプが左手から右手に45度流れています。元である英国は逆に右手から左手に流れます。差別をするために変えたと言われています。

“The Love Story” より、BB Regimental Tie

BBと言えば、本質を知る者に愛される服というキャッチフレーズ!昔から良家の坊っちゃまとか高所得者というだけでなく、高い知性やマナーを備えた人々に本物の服を提供すると言うのが、基本精神。これがディテールの継承となっています。

1918年、100年を記念して作成された冊子

僕が、初めてNY店に訪問したのは、50年前!その後残念ながらBBは、ひとまずその歴史に休止符をうち再建を目指す事になりました。一昨年、マイケル・バスティアンが新クリエイティブディレクターに就任、彼は根っからの70’s プレッピー世代なので、ブルックスブラザーズとの融合で伝統を重んじた新生BBに注目したい!Brooks Brothers は、IVY STYLE の灯台守としての役目を、永遠に続けていかなければならないと言う使命がありますから、これからもマイナーチェンジを続けながら、生き残るべきブランドです。

*Brooks Brothers IVY Exhibition 写真*

“以上の写真は、全て引用です”

<この投稿は22年ブログの改訂版です>

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慶伊道彦 IVY STYLE 手引き / コーデュロイの話

Kayこと慶伊道彦のCoffee Break

春になればシアサッカー、秋が来れば、、、コーデュロイ、この二つは僕にとって大好きな生地です。シアサッカーのシワ感、コーデュロイの畝の影、どちらも生地に陰翳が出てくるところが魅力です。

コーデュロイ生地は大きく三種類に分かれます。細畝、中畝、太畝と。そのうちアイビー・スタイルに相応しいのは、細畝(ピンウエル) と中コールです。ウエルと言うのは畝の数で、畝の太さを表します。アイビー・スーツに使うピン・ウエルは通常14畝、ジャケットに使う中コールは8畝、14ウエル以上はシャツやジーンズに使用します。

上から、細コール、中コール、太コール、親子コール
やや太めな中コール—- 7 well
スタンダードな中コール— 8 well
Levi’s 519 細コール—- 14 well

コーデュロイ・スーツの組み立て

合わせるシャツは、間違いなくオックスフォードのボタンダウン・シャツ、それもイエロー!コーデュロイとイエローは最強タッグです。ノータイの場合には、ダークなネイビー・シャツを合わせても新鮮に写ります。

ネクタイは、一本目はブラックのウール・ニットタイ!シルクでなくウールであるところが重要。シルクのテリがコーデュロイの渋みを邪魔しますので。もう一本選ぶとなると、レジメンタル・タイ!それもストライプ部分にイエローが入ったネクタイが良いと思います。(シャツと同じ理由から)

スーツで着ない場合の替えパンツは、コットン・パンツ!チノパンは相性ピッタリですが、ワークパンツやミリタリーパンツも新鮮な合わせ方。今シーズンは、ウールのチャコールグレー・パンツで臨むのもありです。

シューズは、やはりスエード絡みで選びたい。クラークスのデザート・ブーツがフィットするが、アイビー・フォルムのプレーンな靴ならどれでも合うでしょう。

秋が深まってくれば、タッターソール・チェックやタータン・チェックなどチェック系のシャツもお勧め、カントリーを味わう。また、パンツに、ホワイト・ジーンズはいかがですか?冬にホワイト・ジーンズは逆張りで新鮮です。

ソックスは、イエローのアーガイル・ソックスがお勧め!コーデュロイ、スエード・シューズ、アーガイル・ソックス、黄金比の組み立てとなります。ウールのロイヤルクレスト・タイも相性抜群かと。

このようなコーデュロイは、親子コールと言います。複雑な表情をしているので、組み合わせる際は、注意して選びたいものです。

@vintagelover.h より引用

コーデュロイには、アイビー・ディテールが似合います。6~8m/mステッチを、ラペル、肩、ポケット、袖、バックサイド、、全ての縫い目に。ステッチの凸凹がコーデュロイ畝の陰翳を強調します。

ライトベージュのコットン・パンツでプレッピー
ウーステッド・チャコールグレー・パンツでドレスに
イエローのアーガイル・ソックスにデザート・ブーツ

タウン感覚、カントリー感覚、ストリート感覚、色々な表情を魅せるコーデュロイのスーツやジャケット、今シーズンもお世話になる事でしょう。

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慶伊道彦 IVY STYLE 講座 / 雑誌から60’s以降を読み解く

Kay こと慶伊道彦のCoffee Break

2000年代に入り、ニューヨークでアイビーが復活!新しいアイビースタイルを街で見かけるようになりました。ポロやブルックス・ブラザーズなどの今日ではクラシックに位置するブランドではなく、ダウンタウンやブルックリン発のヘリテージ感覚、ヴィンテージ感覚といった感じでしょうか。今日のストリートスタイルにも繋っていくかと。

10数年前になりますが、NY訪問の際、ちょうどFIT主催の “IVY STYLE” 展があり、運良く見に行くことができました。40’s, 50’s, 60’s, 70’s, 年代別に。そして ヴィンテージウェアと共にBrooks Brothers, J.PRESS, POLO, TOM BROWN, 他ショップとデザイナーをアーカイブ別に取り上げアイビーの流れが納得できる展示でした。アイビースタイルの年代の流れを読み解く貴重な時間でした。

“FIT” 主催
シンポジウムもあり学問的に取り上げられていた

IVY STYLE では、日本が先行していましたが、やはり本場のアーカイブには敵いません。当然、アイビー資料には事欠きません。英語本の資料を読み解きできれば、もっと深く体系化できるのですが、日本語では、メンズクラブ頼みです。

50~60年代は、オーセンティックアイビーの全盛期!アメリカでは満開期、日本では開花期、そんな時代を雑誌から読み解いていきましょう。

日本のアイビーは54年、VANとMENS CLUB (男の服飾讀本) を両輪として広がっていきますが、64年には大流行スタイルとなります (みゆき族現象も起きますし) 。MENS CLUB は、63年に”男の服飾讀本”から名前を変えて創刊、アイビースタイルの蘊蓄を教えてくれました。季刊誌から月刊誌となり当時の若者は発売を楽しみにしていたものです。特に、65年の43号、アイビー特集号はオーセンティックアイビーのベスト版として、今ではなかなか手に入りにくい。

この雑誌を隅々まで読破すれば、いっぱしのアイビー通と自慢できる
オーセンティックアイビーが、今日新鮮!
今の雑誌では見られない写真構成が逆に新鮮!

MENS CLUB 当初の編集部は、実に限られた方々のみで、まあ〜アイビーを知ってる方でなくてはいけないので当然と言えば当然。石津祥介氏、くろすとしゆき氏、二人の執筆者を中心にして、イラストは穂積和夫氏、写真は林田昭慶氏、アイビーリーグ関係で長谷川元氏、これらの方々に西田編集長が纏め役で。

石津祥介氏が編集したこの号で、イラストに大橋歩さんを起用したのがきっかけで “平凡パンチ” 創刊号の表紙に抜粋され大人気イラストレーターとなる。
文 : 石津祥介 多くの文章を掲載する
“KENT” ブランドの誕生もこの頃、 モデルに ジェリー伊藤を起用

その後、70年代に入りオールドアイビーも受難期がきて、ニュートラッドやウエスタン、アウトドアなどがアイビーに取って代わります。

MENS CLUB にもその余波が。暫くは、よく分からないコンチなスタイルの提案となり、雑誌の魅力も薄れました。しかし、70年代後半になり、アイビーの復活、プレッピーブームがやってきました。それが雑誌にも良い影響を与え、MENS CLUB は、再び輝き出したのです。

この号は、ベストマガジン!HARVARD 現地ロケ学生たちの普段着ルックが、当時新鮮に映りました
50号記念で神宮球場で撮影、50通りのアイビースタイルが一堂に

5年前から、神保町の古書店 ”MAGNIF” に通い、MENS CLUBや洋雑誌を漁り、アイビーの再勉強。 やはり、アイビー理論というか理屈というか、それに関する文献はメンクラが一番!特に60年代モノ、そして特集号や別冊、それらはアイビー資料の宝庫です。(勿論、アメリカには沢山のアイビー本がありますが、英語のハードルが高い)

“MAGNIF Jinbocho” にて

洋雑誌では ”GQ” が現在も発刊を続けていますが、’58に Gentlemen’s Quarterly とタイトルを変更し業界誌から一般顧客の為の雑誌としてスタート。’67 に”GQ” と雑誌名を変更。60年代では、コンテンポラリースタイルを中心にして紹介していましたが、70年代にはいり、サイズを大判からA4に縮小、最新のAmerican Style にシフトチェンジ、POLOスタイルなどを紹介し、New Traditional Style の指針となる雑誌に。

New Traditional Style

僕が二十代前半の頃、特に好きな洋雑誌は “Mens Wear” 本場アメリカ東海岸アイビーなスタイルが満載!日本のメンクラと読み比べ勉強したものです。 残念ながら、70年代半ばには廃刊となりました。後に、”M” として一瞬だけカンバックしましたが。

60年代の N.Y. ショップ写真
この様なIVYな写真で構成されていました

* 以上、掲載写真は手持ちの雑誌からです * MENS CLUB, 男の服飾読本, GQ, Mens Wear,

最後に、雑誌ではないのですが、ショップカタログもアイビーを知るための大切なツールです。Brooks Brothers, Cable Car Clothiers,,,

プレッピー時代は、カタログからの通販スタイルが流行りました。定番を自分らしくミックスするプレッピーを楽しむようになりました。カタログが充実していた時代です。

Cable Car Clothiers カタログ

アイビーからプレッピーと時代は移り、その後POLO、J.Crew、AIME、、、とアイビーは、今も進化し続けています。

70年代プレッピー・スタイル / MENS CLUB

この様なアイビー変遷話を、孫世代の若者と語る時間は、なに物にも変え難く、まさにコーヒーブレーク!アイビーが世代間を繋ぐ役割を果たします。

*ジェントルマンスタイルの須田さんと*

*この投稿は、一昨年の記事の改訂版です*

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慶伊道彦 IVY STYLE 講座 / IVYとPREPPYの違い一考

Kay こと慶伊道彦のCoffee Break

よくスタイルに熱心な後輩(というより若者)に質問されるのが、アイビーとプレッピーはどこがどう違うのですか?これほど難解な質問はないですね。何故なら双子の兄妹みたいなものですから、微妙な違いを探すと益々その意味がわからなくなってしまいます。

オーセンティック・アイビー
プレッピー

過去に評論家やうるさ方の皆さんが、その違いを色々おっしゃっていますが、どれもが正しいようでそうでないようで。

そこで、プレッピーなる名称がでた当時のコラムニストの意見を、MENS CLUBの取材インタヴューからご紹介します。

クララ・ハンコックス女史/メンズファッションのジャーナリスト “Jivery Ivy” ジャイビー・アイビーの名付け親

MENS CLUB より引用

女史の基本的なスタイルは、クラシック・トラディショナルであるべし!巷のプレッピーはファッド!その点では古臭いご意見番的な考え方なのですが、一方確かにそうだなあと思う事をおっしゃってもいますので、違いを知るには格好な意見かと。

< 本物のプレッピーはなにごとにせよ、極端に強調しすぎるような格好はしません。例えば派手な色を着る時は、スポーツ観戦に行く時だけに限られます。しかしながらそう言うプレッピーなクラスは少数派です。私自身も貧しいスラム出身ですが、何故そのようなクラスの格好をするのかと言えば、私自身がこのスタイルを尊重し、良いと思っているからです。要するにプレッピー・クラスの真似をしているといえるかもしれません。>

<例えばスペイン語を話しニューヨークで暮らしている若者は、”アンドーバー”出身者ではあり得ず、また精神性も違うでしょう。どちらが良い悪いというわけではなく。だから少しずつ色を派手にしたり、ヘッドバンドをしたりと、アンドーバーではやらない事を少しずつ加えていく。そうやって変わっていくわけです。何事であれ、大勢のものになればそこから変化が始まる、と考えなければなりません。1950年代のアイビーも、初めはただのアイビーでしたが、それが一般化して、段々とエキサイティングなものに変わっていくのです。(インタヴューは1980年のものです)

*アンドーバー / “Home of America” と呼ばれるアメリカ建国タウンで、最も古く最も権威あるPREP SCHOOLがある、WASPの街*

この辺りの考え方は、自分でもよくわかりますね。僕は貧しい田舎の出身者ですし上京して東京の若者のアイビールックにカルチャーショックを受けたのですが、やはり仲間に入ることも出来ず、真似事をするだけで精一杯でした。そういった地方の若者たちが、ルール一辺倒なアイビーに色づけを加えていったのが日本のアイビーの歴史かと。

<アイビーは言ってみればひとつの信仰みたいなものだった。自分のパーソナリティの一部として持ち続け、それは紳士的な慎ましさや自信を生み出した。アイビーという言葉は、アメリカの最も伝統のある大学から出た言葉だ、いってみれば大変成熟した言葉といえる。しかしプレッピーは、遊び半分の言葉、今日の若者がアイビーをどう見るか、現代風の解釈でどう考えるか、アイビーというファッション傾向を子供っぽく解釈し直しただけの、馬鹿馬鹿しい言葉に思える。>

<ですから、今のプレッピーは昔のジャイビー・アイビーのようなものです>

<本物のプレッピーはなにごとにせよ、極端に強調しすぎたような格好はしません。>

オーセンティック・アイビー

以上、MENS CLUB 09/1980 号からの抜粋ですが、オーセンティック・アイビーの信奉者たる女史の怪気炎が伝わってきました。80年、プレッピーたる言葉とスタイルが誕生した頃は、このようなコンフュージョンな現象が起こったのはよく理解出来ます。

さて、今日におけるプレッピーはというと半世紀近い荒波に揉まれて、アイビーと共有するイメージとクラスを得ています。アイビーとプレッピーどちらの言い方でも正解、あえて言えばアイビーよりストリートな流れを意識したラインはプレッピーと言うようになってます。

プレッピー

僕が考えるには、オーセンティックをややオーバーサイズで着るくらいでしたらスタイルはアイビー。しかしパンツのシルエットが大きく変わったりワークパンツ風ディテールが付いたりすればプレッピー、カラー・バリエーションとなるパンツもそう。色を楽しんだりプラスアルファなディテールを楽しんだりはプレッピー。70年代後半から始まったヘビーデューティやアウトドア・スタイル、もちろんフレンチ・アイビーや渋カジなどもプレッピーに。

ですから、当の本人が思わなくてもプレッピーですねと言われたり、アイビーですねと言われたり、今日はアイビーだ、今日はプレッピーだ、と自分が思ってスタイルすればよろしいのでは、もしくは僕のスタイルは ”プレッピー・アイビー”!なんて叫んでもいいのかと。

パンツを替えるだけでアイビーになり、プレッピーになるという、自分の写真から。

オーセンティック・アイビー
プレッピー

アイビーかプレッピーかの結論は、ご本人の気分次第、なんてことはない結論で失礼致します。

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慶伊道彦 IVY STYLE 講座 / アイビー誕生から60’sまで

Kayこと慶伊道彦のCoffee Break

スタイルの一つとして認知されたアイビースタイル、今回は基礎編という事で、アイビーリーグスタイルと日本のアイビールックの成立ちや本場との違いなど、語りたいと思います。

なんと!1920年には、もう IVY STYLE は、語られていました。プリンストン大学在学時執筆されたスコット・F・ジェラルドの ”楽園のこちら側” には、寄宿学校での生活スタイルを描く中でアイビーと書かれています。

“ 皆が彼のようなスタイルをして、彼と同じ話ぶりをしようと努め、、、”

上流階級は勿論ですが、そこに入り込もうとする人や憧れる人にとっても、IVYスタイルを一ヶ所のミスもなく完璧に身につけることで、(ディテールをなぞることで ) 実に上流らしく振る舞うことが出来たのです。

選ばれたエリート青年たちのサークル入部をチェックする際、グループの ”べからず帳” みたいな暗黙のルールがあり、そこからディテールを決め出したようです。まさに、WASP STYLE がルーツで、当初は、やはり英国オックスフォード校のコピーから始まりました。

アイビー・リーグ・スタイルという名称で表に出て来るのは、1933年、NY.ヘラルドトリビューン紙スタンリー・ウッドワード編集者の記事からとか。

名門校ゆえか超弱い8校によるアイビーリーグ。アメフト観戦の学生達は、応援の際、服装の艶やかな事が注目される!記者は、ヘタなプレーヤーを見るよりオシャレな応援団の服装の方が記事になると考えたようです。その際に、”アイビー・リーグ・スタイル”と名づけました。

ファッションとして世にでるようになるのは、1955年 、IACD 公認スタイルとして認知されて、一般人もIVYを真似るようになりました。こうしてアイビー・リーグ・スタイルの誕生となったわけです。

IVYと言う言葉には、エスタブリッシュメント、保守性、普遍性、などの意味合いが隠されていて、アメリカのアッパークラスを指すのに最適な表現と言えます。そのスタイルのアイコン的な店が、NYマジソンAV. 44th ストリートにある Brooks Brothers でした。また、その隣にあった J.Press のスタートは、エール大学に隣接するショップでした。

アイビー・リーグ校 / 8大学
*上記は引用写真です*

日本で、アイビーが始まったのは、意外にも早く1954年、MENS CLUB の前身 “男の服飾読本” が創刊されましたが、1956年には、もうすでにアイビー特集をやっています。僕もこの雑誌を読みましたが、本当にこの雑誌は56年発行なの?と疑う位良くできた雑誌です。

*貴重な特集雑誌*

MENS CLUB は、1963年/12月号に創刊されました。”男の服飾読本” が名前を変えての発行。54年創刊からの経過とVAN JACKET の発展は同時に進みます。編集の多くに、VAN 石津祥介氏とくろすとしゆき氏が関与されていましたから当然といえば当然といえますね。

幻のアイビー特集号、入手困難

1964年/夏 東京オリンピックの年、かの有名な ”みゆき族” が、銀座みゆき通りを闊歩するわけですから、54年に紹介されてわずか10年で、日本独自のアイビールックが確立された訳です。一般人に広まったという点ではアメリカとほぼ同時代のスタートと言うから驚き!最も、日本にはWASPという階級は存在していなく、街の若者からの流行ということですが。

60年代半ば、本国アメリカでは反戦運動が活発になり、すでにアイビーがすたれてしまっていたにも関わらず、日本では、その後10年間!さらに人気が高まっていきます。これは、VAN と MENS CLUB の功績といえるでしょう。

*街のアイビーリーガーズ* につながる第一回
アイビー先導者たち
VAN イメージイラスト / 上記はMENS CLUBより引用

63年頃から70年頃まで、アイビー全盛期を迎えるのですが、日本では当時アイビースタイルとは言わず、”アイビールック”として広まりました。結果として、日本独自のアイビー感がこの時に培われたのです。また1965年に発行された “TAKE IVY” この本が、僕たちのバイブル、そしてスタイルの原点となりました。

2010年、発行元がアメリカ出版社と言うことで洋書!本家の日本が逆輸入!

みゆき族、その後アイビー族、彼らを兎角世間を煩わせる若者の風俗として世間は捉えていましたが、石津謙介先生はコレに反論されていらっしゃいました。いつの時代も既成の打破には大変なエネルギーを必要とされます。

アメリカのWASP的な IVY STYLE と違い、日本のアイビー・ルックは、若者による独特な味付けがありました。例を挙げれば、<ダークカラーを愛でる> チャコールグレー、チャコールブラウン、オリーブグリーン、オックスフォードグレー、ネイビーブルー、ワインレッド、<バンカラを気取る> 洗いざらし、ほつれや生地痛みを気にしない、<黒ニットタイ> <ミスマッチな組み合わせ> <靴だけはピッカピカ> <猫背歩き> <エクストリームIVY> (勿論アメリカでもよく見られるスタイルもありますが) やはり、支持者が圧倒的に若いと言うことが、ストリート感な方向に向かったのかと。

アメリカでは、大学卒業と同時にブルックスブラザーズで購入する社会人トラディショナル・スタイルとなるのが通例てした。

*MENS CLUB 絵/穂積和夫*
MENS CLUB 絵/穂積和夫

60年代アイビーは、オーセンティックなネオアイビーと言えます。ディテールを厳格に守るスタイルです。簡単に特徴を述べると、

ジャケット 3ボタン 上二つ掛け/ 袖2ボタン      ラベル幅ー3inc, マシーンステッチー1/4inc. ボタンスタンスー13cm , 袖ボタン幅ー2.5cm , フロントカット/ラウンドアウェイ, フックベント,

パンツ パイプステム, プレーンフロント, バックストラップ, ベルトループ 1inc.

他 ナチュラルショルダー, ボックスシルエットシャツ/ボックスプリーツ, ループ, フロントパネル, ボタンダウン, バレルカフシングル、、、

MENS CLUB より引用 / アイビー・ディテール
“男の服飾読本” より

いや〜〜こりゃ〜大変だあ〜しかしまだまだこんなものではなくもっともっとあると言っておきましょう。

IVY STYLE 集合 / MENS CLUB 50号記念より

“上記写真は全て、自分の雑誌より自分で撮影して引用したものです”

また、映画からの影響も非常に大きいです。60年代ハリウッドスターのスタイルは、基本アイビーだと言えますから。特に、僕にとっては、アンソニー・パーキンスとジョージ・ハミルトンの映画を観て、衝撃を受けた思い出が強いです。何度も観に行って猛勉強しましたから。当時、田舎から出てきたばかりでアイビーの事は何も知らなかったですし、その意味でも、ハリウッド映画が学習の基でした。

アンソニーパーキンス ”のっぽ物語”
ジョージハミルトン “ボーイハント”

雑誌メンズクラブを主に参考にして、オールドアイビーについて語りました。60’s アイビーの基本知識

(この投稿は、一昨年のブログの改訂版です)

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慶伊道彦 IVY SYLE 講座 / ニートネス・プレッピー 24S/S

Kay こと慶伊道彦のCoffee Break

ここしばらくパンツのカラーはカーキーやアーミーグリーンなどアース系でしたが、どうやらクリーンなカラーが勢いを増してきたようです。ちょっと綺麗めのクリームやミント、そして本命のエクリュやホワイト!こんな色のパンツに綺麗めラインをしっかりと入れてプレッピーな気分を味わう。そこで基となる80年トレンドのプレッピーについて MENS CLUB の写真を取り入れながら解説いたします。

80年、ニュートラディショナルを代表する ”ジェフリー・バンクス” お得意である絹綿麻ミックス素材のサマーツィード・ジャケット・スタイル、ジャケットとパンツのカラー合わせが80年代ぽい綺麗め
もう一人当時の人気TRADデザイナー ”サル・セザラーニ” 色の組み立てにひねりが得意技!クレリックシャツのクリームにネクタイのピンクを合わせ、ミックスカラーのジャケットを持ってくるという当時は斬新な色合わせ
サル・セザラニのパステルカラースタイル、ニュートラルな合わせは、今日でもモダンを感じさせます
自前ですが、似たような色合わせなので紹介します、エクリュを柱にして淡いクリームとベージュを持ってきました。
大御所ラルフ・ローレンのパステルカラーは、上記の二人と違い、ややストロングなパステル。ピンクやイエローの重ね合わせ。”華麗なるギャッビー”   
ニートネス!ラインのしっかりと入ったコットンパンツ、ウォッチポケットとインタック付き。ホワイト・パンツが魅せる、綺麗めポロシャツや肩に掛けたセーターがプレッピー仕様。
アース系のジャケットを持ってきても、パンツとシューズにホワイトを持ってくる事で綺麗めに。ブルックスブラザーズやケーブルカークロージングなどのカタログスタイルに注目!
ベージュジャケット、綺麗めパンツとリボンベルト、生成りのコットンベストを合わせる、80’s プレッピー MENS CLUBより引用
上記写真の気分で僕のスタイル、シャツとソックスにイエローを、そして生成りのサマーコーデュロイ・ベストを取り込み、ニートネスに纏める
バラクータ・スタイルでも、ニートネス!パンツに淡いグリーンを合わせる事で。今シーズンは、この様な綺麗めジャケット・スタイルをプレッピーに組み合わせるのがクール
チノパンには、このようにラインをしっかり入れます
ホリゾンタルストライプのポロがニートネス
ヘンリーネックTやボーダーTも綺麗めパンツで決める MENS CLUBより引用
今シーズンは、この様にグレーウール・ドレスパンツが逆に面白い。シアサッカージャケットスタイルでもドレスに決めるのが、今年流!
ニュートラルカラーでまとめ、ダークなニットタイで締める。ホワイトを中心にして今シーズンは纏める
サマー・ジャケットには綺麗めイエロー・ポロシャツが、プレッピー気分
マドラスショーツがプレッピー、合わせる白シャツにインするのは、カラーTシャツが新鮮
カットしたホワイト・ジーンズのショーツ、ラガーシャツとシアサッカー・ジャケットの組み合わせも新鮮

以上、MENS CLUBからの写真を基に自撮りコーディネートしました。結論としては、今シーズン、色にこだわる綺麗めニートネスで (特にホワイト) 、パンツにはラインを忘れるな、ニートネス気分!

(この記事は一昨年夏の投稿の改訂版です)

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慶伊道彦 IVY STYLE 手引き/ 思い出のホテル NY編

Kay こと慶伊道彦のCoffee Break

ニューヨーク出張は、僕が25才の時!本部長の鞄持ちとしてが最初だったのですが、当時で海外出張とは恵まれた方でしょうね。ただ、ロンドン編でも書きましたが、やはりサラリーマン時代はホテルの選択が一般的なレベルだったので、センス良いホテルとは言えなかったです。(1970年代初期ではそんなモノでしょうか) その後、30才で再び訪れるようになった際は、その時の反動もありそれなりに自分好みのホテルを選択するようになりました。

Roosevelt Hotel

1972年〜75年頃のサラリーマン時代によく宿泊しました。

50年以上前に、何度も泊まったホテル “ルーズベルトホテル” 45st x Mad.avの角にありました。一番の良かった点は、ブルックスブラザーズとポールスチュアートがすぐ目の前にあったこと、その為何度も何度も往復できました。この辺りは、60年代まではニューヨークの中心地、ドラマ ”マッドメン” の世界!その点では、ロケーションの良いホテルでした。最近では、ツーリスト対応のエコノミーなホテルの印象となり下がりましたが、当時は名前負けしないクラシックタイプな三ツ星ホテルでした。

Omni Berkshire Place Hotel

79年、起業して最初のニューヨーク出張!その際は、やはり目的がクラシック・メンズショップ周りだったので、ポールスチュアートに近いマディソンST.にあるバークシャー・ホテル、やはりNYに慣れない間は目的地そばのホテルが使い良いです、50丁目マディソン角ですから、ほぼ全てのクラシックタイプのメンズショップは30分以内で行けました。ブルックス、ポール、J.プレス、Chaps、、、

ホテル格としてはミドル・クラスですが、その時代としては割とモダンなインテリアでした、またBARがお気に入りでした。立地がミッドタウンでしたから、会社帰りのビジネスマンで賑わっていました。曰くヤッピーと言われる当時のニューヨーカーは、次から次へと目新しいバーを求めて移動しました。そう言う意味では、80年前後は、ここのバーもまだまだ目新しかったのでしょう。僕は、夕食前と後と毎日二度行ってましたので、バーテンダーとも顔馴染みとなりました。ニューヨークのヤッピー風ビジネスマンの生態をちょっとだけ観させていただきました。その後、彼らは、57丁目に新しくオープンしたフォーシーズン・ホテルのニューなBARへと移っていきます。

Mad. Av X 50St. の角なので足の便がよい
80年代に賑わったホテル・バー/ 3-4人のグループで来て、スペースがあれば遠慮なく入り込んてきて、立ち飲みでガヤガヤ楽しんでいる。ナッツのツマミも誰のものだかわからなくなり、勝手に食べていた。

The Mark Hotel

1986年、ラルフ・ローレンのマディソン通りの旗艦店がオープン、歴史的建築物のマンションを活かしてリノベーション、大いに話題となる。そこで、僕もアッパーイースト・エリアに疎かったので、この機会にと77丁目の新しいホテル、マークホテルに宿泊、いわゆるホテル周りの近所ブラを開始、セントラル・パークもこんなに上まではそれまできていなかったので。乗馬スタイルで馬を引いていた美女を見た時はさすがに口アングリ!アッパー・イースト地区のリッチ・スタイルに唸るしかなかったです。

セントラルパークがすぐそこで、池をぐるりとジョギングして、映画 ”マラソンマン” 気分も味わえました。

HOTEL 写真から引用

SHOREHAM HOTEL

マークホテルは、メインタウンからあまりにも離れているので、市場調査には不便でした。そこで前回リサーチの途中で立ち寄ったカフェのホテルに次回より宿泊。特に目立つ取り柄はないのですが、何せ場所が最高!5&6av. x 56St.という抜群の立地、バーニーズ、バーグドルフ・グットマンをはじめ名だたるブティックが10分圏内、忘れ物しても即戻れる近さ。あと、これといった特徴もないシンプルなホテルですが、無駄がなく価格的にもバランスの良く広い部屋、一応、オープン仕様の二部屋設計なので、友人も招けました。随分長いこと、このホテルからのマーケット・リサーチをやりました。

ホテルの引用写真
オープン仕様の二部屋設計が便利

ALGONQUIN HOTEL

ニューヨーク出張に慣れてくると、やはりホテルにさらにこだわりが出てきました。かの昔いわゆる文筆家がよく宿泊したというホテル、(東京で言えば、山の上ホテル) ザ・アルゴンキンホテル、ここに泊まりました。44ストリート 5&6av. ミッドタウンの中心地でブルックス・ブラザーズやJ.Press(80年代当時)にも近かったです。ホテルは、少しずつ昔の威光も薄れて来ている感じでしたが、まだ佇まいも感じられる時代。(その後、クローズとリオープンを経るがもうその時の面影はなくなった) 当時、ロビー入り口に、本体のブルーバーとは違う小さなBARがあり(6畳間くらい?) そこで実に楽しい時間を過ごせました。近くにニューヨーク・タイムスがあり、そこの記者たちがよく来ていました。何故か僕たちは和気あいあい、ジャンケン・ゲーム?などをしたことをうすらうすらと記憶 (酔っ払いながらの)

BLUE BAR ここのマティニが、いわゆるニューヨーク・マティニそのもの、大ぶりのグラスにたっぷりと注がれていて、飲み干すと確実に酔っていました。 写真は、現在のブルー・バーです。

ROYALTON NEW YORK

5av. x 44st. にあるロイヤルトン・ホテルは、80年代カルチャーから生まれた新しいムーブメントなブティック・ホテルです。イーストヴィレッジから始まったニューカルチャーは、ヤッピー文化を払拭、クラブだけでなくホテルやレストランにも影響を与え、その走りがこのロイヤルトンホテルです。その後、近くにパラマウントホテルなどもできて来ましたが、このホテルがやはりナンバーワンです。80’sなカルチャーを感じることができます。このホテルに泊まって、ダウンタウンのナイトクラブまわりをするのが刺激的で、ファッション・ピープルたちの溜まり場でした。まさに、クレージーな80’s気分を満喫するために、このホテルを選びました。しかし、ブティック・ホテルは使い勝手が悪いので、一度きりでしたが、いろんなファッショナブルなゲストと出会い想い出は多いです。

クラシックホテルにはなかったロビー&ラウンジ、現在ではよくありますが、当時は斬新なデザインでした
写真は全てホテルの引用写真

IROQUOIS HOTEL

アルゴンキンホテルのほぼ隣にあるホテル、44STはたくさんのホテルがあります。アルゴンキン、ロイヤルトン、ソフィテル、パラマウント、そしてイロコイズ、、、ここのポイントはタクシーがもっともゲットできる場所、ニューヨークの夕方のタクシーの捕まらなさはクレイジー!30分や一時間は無駄になります。それがこのホテルに宿泊してからは、なくなりました。恐らくこのストリート!これだけ多くのホテルが密集しているので、ドライバーにしても客をキャッチする時間の無駄が省けるからかと。それと、ホテル・チェックインのためのタクシー降車も多いので。他のホテル玄関に停まっても視界に入るので、ちゃっかりその前までいって拾うことも度々。最悪待っているリムジンも20ドルくらいでダウンタウンまで行ってくれましたし。(彼らは、メインのゲストを降ろして再度乗るまでは、フリーでアルバイトを認められているのかと、マイケル・ジャクソンが乗ってるような超ビックなリムジンカーにも乗った事がありましたが、さすがに映画スターの気分になりましたね。

そういう訳もあり、2000年代は定宿にしました。80年代バブルも終わり高級ホテル利用は無理となった事情もありますが。スタンダードなクラシックホテルなので、BARやラウンジのセンスの相性はいいのですが、ただ一つベット仕様が古いのでコンディションはわるかったですね。

44丁目は、非常に便利。イーストに行けば、すぐにブルックスブラザーズやポールスチュアート。ウエストに行けば、ブロードウェイも近く簡単な食事するには困りません。20分くらいでアッパーのショップはホボ行くことができますし。(72 POLO だけは、タクシー) ダウンタウンだけは、タクシーか地下鉄を使うしかないです。

ホテルの写真引用
ここのBARが意外と捨てたものではない、ファッション系ホテルではないのだが、古いヨーロッパ調の感じで雰囲気が良いので、毎晩のように使いました

THE MERCER HOTEL

90年代終わりにオープンしたこのホテルは、あらゆる意味でクールなホテル、フロント、ラウンジ、室内、そして最たるはBAR! Mercer Kitchen 当時のモダン・ニューヨークなインテリアもだが、カクテルのレベルも高い。(その頃のニューヨークのバー・カクテルのレベルは非常に低くエンターテイメントな要素が強かった) 銀座バー・テンダーの上田氏がここで一週間、氏のオリジナルであるハードシェイク・マティニを振る舞ったのは有名な話です。

ちょうどソーホー地区の人気が出てポピュラーになって来た時代で、大型のファッション・ブティックが続々と出来トレンド化、当然80年代ソーホーのイメージはなくなってきました。ここを拠点にダウンタウンのブラブラを開始、また大好きなラルフ・ローレンの店、RRLやBleeker StreetのRalph Lauren Storeも近かったので、度々訪問。

ホテルの写真引用
Mercer Kitchen Bar 90年代後半は人気No.1

SOHO GRAND HOTEL

バブル崩壊が始まった頃、ロウア・ウエスト・サイドにあるトライベッカ地区が注目されるようになる。街並みは、その昔は栄えていたので古い面影を遺しています。70年代以降、ソーホーを追われたアーティストたちが集まりだして街のイメージを作り出し、また90年代に入りロバート・デニーロが映画祭やレストランオープンに参加した事も再開発には大きな影響があったようです。

ソーホーグランドホテルは、そんなトライベッカを散策するのにちょうど良いロケーション、ウエスト・エリアに疎かったので、ホテルを起点にして探検を開始。ホテルはトライベッカらしく古いアメリカをモダンナイズした知的でアートな雰囲気です。

トライベッカにある古着屋さんとか、J.CrewのLiquors Shop 、大型雑貨店、、、

また、ハドソンリバーも近く、川沿いに歩道が走り映画のシーンを満喫出来ました。

写真はホテルから引用

Bowery Hotel

ダウンタウンをブロードウェイに並行して南北に走るバワリー・ストリート、ちょっと前までは、ジャンキーで危険な大通りでした。70年代後半に訪れた時は、怖くて小走りで通った思い出が。なぜ訪れたかというと、その当時大好きになったロックグループ、トーキングヘッズがデヴューしたCBGBというクラブがあったからです。ビビってトイレにいった記憶があります。

そんな通りも、段々と穏やかな街となり、2000年代にはアート感覚溢れるホテルが出来だしました。その一番がバワリーホテルです。ロビーとラウンジは、その当時トレンドのナイトクラブ感覚を取り入れ、惜しげもなく置かれているヴィンテージなファニチャーがクールでした。スタッフもダウンタウン仕様でヒップなカジュアル・スタイル。

部屋はヴィンテージ風ウッドを使って落ち着いた感じでした。ただ一つ、どうやらペットを持ち込むことができるらしく、ベットカバーが毛だらけで、困りました。運良くフロントにお願いしてチェンジしてもらう事ができましたが。どうもセレブ感は苦手かな。

ヴィンテージ感をうまくセンスアップしたインテリア
ホテルの写真を引用

The Nolitan Hotel

ノリータ地区にあるこのホテル”ノリータン” リトルイタリーや中華街、またトレンドとなったElizabeth St. にも隣接、イースト・ヴィレッジに近く、この界隈を探検するにはピッタリなロケーションです。たくさんのニューウェーブなお店をチェックするのにも便利です。新しいニューヨーク・カルチャーを身近に感じられますし。僕のNY出張の歴史、終わりの頃は、このホテルばかり使っていました。価格もリーズナブルで心強かったですし、このエリアも気に入りましたので。

ブティック・ホテルのスタイルなので、スタッフもフレンドリー、クラシック・ホテルのような痒いところに手が届くような便利さはないですが、慣れれば気にもならないです。ウォーターやニュースペーパーもありますし。

Kenmare St. ヒップなエリアとなりました、その走りがこのホテルです。
コーナー・ルーム 少し広い部屋で猫足バス付き

The Carlyle

やはり、ニューヨークのお気に入りホテルをあげるとしたら最後はココでしょう!ご存じウディ・アレンが毎週のようにクラリネットを吹いたBARがあり、また”レニィデー・イン・二ューヨーク”でもたっぷりも観せています。ホテルもハイ・ソサイティながら伝統的なアメリカン・クラシックな雰囲気を味わえます。プライスも高いので僕も一度しか泊まったことはないのですが、ニューヨーカーとアメリカンの入り混じった雰囲気を味わえました。

ここに泊まったなら、やはりBemelmans Bar に予約を入れておくべきでしょう。お気に入りのバーのホテルに泊まって、予約して行くバー・スタイルは気持ちに余裕が出来て、慣れない旅行者には欠かせませんね。

映画 “カーライル ニューヨークが恋したホテル” これを観てから訪れるというのも良いかと。

Bemelmans Bar
以上、ホテルの引用写真

旅慣れしてきた2000年代以降、ホテルのセレクトに変化。当時、ポール・スチュアートやバーニーズと商いを開始していましたので、商談室があるミッドタウンにまず2~3泊、そして後半は、マーケット・リサーチに便利なダウンタウンをチョイス、前半後半とホテルを分けました。この方が動きやすかったからです。同じホテルに居続ける気楽さはありますが、やはりホテルは行動するのに便利なエリアが最適!そこでこうなりました。

以上の他にも宿泊したホテルは沢山あります。何せ20代半ばから毎年のように出張していましたので。失敗したホテルも数々あります。また、リコメンドのミスやホテル側のミス(それでも泊まれなかった) 泣きたくなる事も度々。しかし、それもまた経験となりホテルの選び方が上手くなったのかもしれません。旅行者にとりホテルは自宅と同じですから大切です。 50年間の思い出をたどりながら、少しづつ書いてみました。旅の思い出はホテル!

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慶伊道彦 IVY STYLE 手引き/ロンドン思い出のホテル

Kay こと慶伊道彦のCoffee Break

ロンドンでの宿泊ホテルから、バブルを挟む80年代90年代を思い出してみました。

サラリーマン時代いわゆる鞄持ちでの出張時代は、実につまらない平凡なホテル宿泊でした。(それがアッパーミドルクラスではあっても) それゆえ、自分で会社を興してからの出張は、意味のあるホテルに泊まりたいと考えました。

まず第一にロケーション。興味あるエリアにあるホテルを選択。ホテルを中心にして歩き回りたい。何度も往復できるので便利さに勝るものはないです。

第二にアットホームな事、平たくいうと大きすぎない事。チェーン化されたホテルでない事、時の移りでその後系列化されていくのは、致し方ないところですが、当時は独立したホテル経営である事。

第三にカルチャーを感じるホテル、宿泊しているだけで、自分の何かに刺さったり興奮したりするホテル。とはいえ、別段いたって普通なセンスで、奇を衒うとかいう訳ではありません。

このような条件のホテル選びをしましたが、勿論値段もソコソコ高いレベルなので、2泊位まではそこに泊まり、その前後はいたって普通なホテルにしてコスト・バランスを取りました。ロケーションだけはなるべる興味あるエリアにはしましたが。

では、僕の80年代90年代から2000年代初めまでのホテルの紹介をします。(宿泊した当時の印象なので、その後変わっていく場合もありますが)

“22 JERMYN STREET“

80年代、30才台初めの頃、ロンドンのクラシックなスタイルに憧れていたので、まずはジャーミン・ストリートかなと思い、知人に紹介して頂く。有名な帽子店BATEの隣の見落とすような狭いドアから入ります。(BATEは、2000年代に入り閉店し、その後、別のファンドで再開するが、当時のイメージからは程遠いが) ロビーもなく小さなフロントですが、宿泊フロアは、それぞれの3フロアだったか各フロア4~5部屋あったようなスケールでした。エレベーターもなく、当時重い鞄を持ち上げるのに苦労した思い出があります。

当然、ジャーミン・ストリートは、目の前、ピカデリー・サーカスも1分!バーリントン・アーケードも5分、初歩のロンドン歩きには絶好のポジションでした。界隈の老舗店に何度も足を運んで勉強しました。特にジャーミンStreetはシャツの聖地で、ヒルデッチ&キー、ターブル・アッサーを筆頭にいくつかのシャーツ・ショップがあったので、ボタンダウン離れしていた頃でしたから、ワクワクが止まりませんでした。

2-3Mの入り口
老舗帽子店BATEの隣り
小さなフロント・エリア

HAZLITTS SOHO

ハズリッツ 1718年創業、昔の文豪が泊まっていたことで有名でしたが、ソーホー地区に興味が出て来た頃に宿泊、まさにド真ん中にあるこの小さなホテル、何と床が傾いていました。やはり立っていると妙なのですね、球が転がる感覚。猫足バスタブや実に古い時代を感じさせる室内の魅力はさておき、やはり2泊が限界でした。ただ、シャーロック・ホームズの世界に近いソーホー文化に触れる最前線だったので、古い歓楽街ソーホーを満喫出来ましたが。最近、またリニューアル・オープンした事をSNSでチェックしましたが、あの!傾きはリフォームされたのかな?

写真は現在のものを引用しました
当時はもっと古い感じがしましたが
猫足バスタブも今は新しいモノです

Number 16 Hotel / サウスケンジントン

ナンバー・シックスティーン サウスケンジントン駅近くの閑静な住宅街にあります。ロンドンのホテルによく見られる以前は高級マンションだった建物をそのままホテルにリフォームしたスタイルかと。80年代後半、マイケル・ドレークに紹介を受けて以来、気に入ったので何年も宿泊しました。ここはチェルシー地区に近く、キングスロードまでの道中たくさんの有名ショップを見るなど、メイフェアとはまた違う高級エリアを散策できます。その後新しくできたザ・コンラン・ショップも近くにあり、またあのハロッズも歩いて15分くらい、道中アンティーク・ショップなどを楽しめました。

このように邸宅の入り口といった感
セルフサービスのラウンジ・バー/ 勝手に出して飲めるので、意外と使いました。夜遊びが足らない時とか 勿論自己申告はきちんとしますがネ
女性が喜ぶようなスタイルのブレックファーストができる内庭、高いので滅多に使いませんが

SOHO HOTEL ソーホーエリア

80年代後半から90年代にかけて、ロンドンのナイト・カルチャーにハマりました。新しい文化はすべからくソーホー・エリアから発信されてました。バー&ラウンジ、劇場、JAZZ、クラブ、映画館、、当時ニューヨークと共にロンドンでも新しいスタイルのホテルが誕生した時代でしたが、大体がソーホー・エリアでオープン。(その後、OLD STREETエリアへと移っていきますが)

目新しいファッション・ホテルの一つであるソーホーホテルにトライしたのは、そういった時期でした。外装は古い建物をリノベートしたものなので、歴史を感じさせますが、一歩中に入ると全く別な世界、ニュー・カルチャー・シーンを感じることができました。ホテルマンの服装や接客方法などもいままでのクラシックなタッチとはまるで違いました。(もっともクラシック・タッチの方が良い場合が多かったですが) ラウンジやバーも新時代を感じ連日ファッション・ピープルで盛り上がってましたね。ヒップなピープルに接した感がありました。

多くの起業家ショップも誕生し、ロンドン・ファッションの底堅さを感じました。

写真は今のホテルの引用
写真は現在のラウンジやバーの引用、その時は、もつとアートなガーデン風だったかと
古い感覚もヒップに捉えて

DUKES HOTEL St.James Places

DUKESホテルのBARが評判だったので、一度トライしたいと思い夕方食事前に訪問したのですが、すでに満員!断られました。そこで作戦を変え、次回のホテルをDUKESホテルにして、BARにトライ。ですから、バー予約のために宿泊したような感じですね。チーフ・バーテンダーは有名人らしく会話も上手、東京にも何度か行ったようで、僕が贔屓にしていたBar TENDER の話で会話が成り立ち楽しい時間でした。ホテルのバーとしては良いバーだと思いましたが、旅行時に並んでまで行くかと言うと。

セント・ジェームス・ストリートから少し入った静かなエリア、LOCK HAT, JOHN LOBB, など老舗店が並び、紳士スタイルのための小道具に眼を奪われる。ジャーミン・ストリートやアーリントン・バーケード、セヴィルローもすぐそこにありますし。

今も変わらない玄関前の風景
古きクラブを意識した内装のラウンジ
名物のBAR 毎日、大勢のビジネスマン観光客が訪れる

CRARIDGE’S HOTEL Mayfair

ロンドン最中心部メイフェアにあり、アールデコな歴史あるホテル、昔から各国の首相や銀幕スターが泊まることでも有名です、僕が80年代このホテルの前を通った時には、ソ連のゴルバチョフ大統領が宿泊、非常に厳守な警備がされ驚いた思い出も。今年も我が天皇ご夫妻の宿泊ホテルとなった事をテレビで知りました。

そんなVIPなホテルに何故まるで似合わない僕が泊まったかと言うと、やはりこれもホテル内のBARに行きたかったからです。(僕が思うにホテルのバーは、ビジターで入るのと予約で入るのでは気分が違う、住んでいるのなら行きませんが、ツーリストですから興味ある事を潰していきたかった) 恐らくこのホテルに泊まって深夜のナイトクラビングをやったようなアホな客はあまりいないのではと、ロックスターは別として。

圧倒されるロビーや各コーナーのインテリアは、僕にも平等に迎入れてくれました。セキュリティの厳しさはこのホテルの政策上当然の事ですが、それに慣れればスタッフはさすがの三つ星!二日間だけのドリームでした。

第一目的のBARは感動モノでした、完璧なインテリアとバーテンダーに圧倒され、宿泊客でなかったならあれだけ楽しむ事はできなかったでしょう。やはり、その後、ビジターで訪れた際は、それほどでもなく、地元ビジネスマンの喧騒に負けてましたから。

メイフェア・エリアは、ボンド・ストリート、セヴィルロー、バーリントン・アーケードなどクラシックなショッピング・エリアの隣、便利さも最大なのは言うまでもありません。

変わらぬ正面玄関前とセキュリティ
美しいアールデコなフロント
最近の写真を引用しましたが、概ねこの様なメンバーズ・クラブ風で、バー・カウンターが素晴らしい

素敵なホテルは、他にも色々あるとは思いますが、所詮一人のしかも年に1~2度の訪問ですから、こんなところでしょうか。ホテルサヴォイやホテルリッツなど観光客に人気のホテルは避けました。また、イギリス特有のBed & Breakfast 形式のホテルもイギリスっぽく値段も手頃なので、度々間に挟みました。

ホテルはそのエリアの中心、ポジションだけでなく文化的にも意味があります、ですからホテルを決める際は、まずは興味ある場所から、という事は日本の旅行でも変わりません。是非、よい旅を!

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慶伊道彦 IVY STYLE 講座 / 昭和スタイル・ホボユル考察

Kay こと慶伊道彦のCoffee Break

昭和ブーム!そこでKayの昭和の話

今の昭和ブームは、おそらく80年代の話だと勝手に思っています。メンズ・スタイルにおいて、例えばゴージライン一つ取ってみても、5年程前までは、肩にくっつくのではと思うくらい高い位置でした。それがかっこよかったのですが、今ではスタンダードな位置にまで戻ってきました。むしろゴージをもっと下に下げてラペル幅も広めで、当然ゆったりしたシルエットを楽しむおしゃれさんが登場していますが、意外とコレ!80年代のDCブランドのスーツに似てるんですよね。プレッピーとDCブランドは80年代の申し子ですからね。

80年代スーツの引用写真
段々とゴージラインが下がってきている(引用写真)

音楽も80’s和製ポップスが流行りとか、山下達郎や松田聖子に代表される。(まあ〜そのあたりは詳しくはないので、サラッとで)

(引用写真)

やはり僕のような団塊世代の者たちに取って、昭和とは60年代でしょ!自分たちの10代後半から20代前半あたりの頃ですかね。その頃の出来事だけは鮮明に覚えているのですから。

その頃のメンズ・スタイルといえば、IVY/アイビールック!ヒップなアメリカから持ち込まれたアイビールックは、瞬く間に全国に波及。僕ら少年青年を虜にしました。

今では、アイビー・スタイルと呼び名も変わりましたが、プュア・アイビーな方から僕のようにほぼユルなスタイルの者まで支持者は今でも多いです。

アイビーといえば、やはりMENS CLUB
MENS CLUBの創刊が1963年!まさに60’s

60年代の最大のカルチャーな出来事は、テレビの普及でしょうね。魅力あるテレビ番組が多く登場、新しいカルチャーをテレビから感じる時代に。

今、思い出しても、当時の番組はシャレていました。幾つか挙げてみましょうか。皆さんも若い頃を思い出してください。

NHKの”夢であいましょう” 中嶋弘子の司会で始まるこの番組、その後大活躍する多くのスターを生み出しました。渥美清、黒柳徹子、名曲”上を向いて歩こう”の坂本九、永六輔、中村八大、など

中嶋弘子の引用写真
バラエティ番組からスターが(引用写真)

深夜番組からカルチャーが生まれるのは当時も同じかと。日テレの11PM 、大人のためのバラエティ番組、女性のスキャットで ”イー・サバダバ”と軽快に始まり、司会の大橋巨泉と朝丘夢路がアップに!作曲は当時一番の洒落モノと言われた三保敬太郎、そして司会の巨泉からは遊びがヒップだということを教わる、釣り、麻雀、競馬、ゴルフ、風俗、もちろんジャズやカクテルも。働くだけのサラリーマン気質が少しだけ変わってくるのも、この番組のお陰かな。

日替わり司会者たち(引用写真)
“野球は巨人、司会は巨泉、朝まるで弱い朝丘”

当時No.1なべプロの歌謡番組 ”シャボン玉ホリデー” ザ・ピーナッツとクレージーキャッツが毎回出演、植木等の ”お呼びでない?こりゃまた失礼致しました” 番組の看板フレーズとしてブレーク!数々の大ヒット曲がこの番組から生まれた。

クレージー・キャッツのレコードカバー
ある日の出演者たち (引用写真)

フジテレビ番組からも一本 “おとなの漫画” クレージーの新しいギャグを楽しんだものです。ここから青島幸男が構成担当でデヴューし、その後の植木等との大ヒット曲が生まれます。”無責任男シリーズ”

クレージー・キャッツ (引用写真)
この写真はクレージーをよく表しています(引用写真)

60年代を語る上で欠かせないのが、新しく生まれた男のスタイル雑誌でしょうか。”MENS CLUB”の前身である”男の服飾讀本”は、その後アイビーを紹介するようになり、1963年12月号より”メンズクラブ”の誕生!アイビールックの火付け役となり、全国に(曰く)アイビー族を生み出すキッカケとなる。

(引用写真)

64年4月に創刊された”平凡パンチ”、ファッション雑誌のMENS CLUBと違いヤング・ターゲットの総合雑誌で全国でも発売されました。そのためインパクトは凄いものがありました。当時、田舎に住んでいた僕(高校生)ですらコッソリと読んだものです。ですからアイビーが全国に知られるようになったのは、平凡パンチのアイビー特集からでしょうか。大橋歩さんの表紙のイラストもアイビーを匂わせるカッコ良さでした。また、この年の夏、”みゆき族”が闊歩しますが、オリンピック開催の治安維持のため、取り締まりにあい消滅。その後、アイビー族などと言われアイビー・スタイルは全国に広まりました。(石津謙介氏はこの名前に大反対しましたが)

(引用写真)

平凡パンチより、さらにプレーボーイ誌よりの大人カルチャー雑誌、FIVE6SEVEN、遊び心満載!60年代の若者が従来の大人目線から飛び出そうとするサマがよく分かります。

団塊世代前後は、カウンターカルチャーの大きな唸りを受けるが、その時代のシンボルが、三島由紀夫、横尾忠則、寺山修司、そして紅テントの唐十郎ではないかと。新宿東口を拠点として若者カルチャー運動が盛り上がる。

引用写真

新宿では、もう一つの動きもありました。ジャズ喫茶”風月堂” もともとはジャズ好きな若者たちのたまり場でしたが、その後カウンターカルチャーの発信場となる。当時の敏感な若者は一度は足を運んだかと。

カウンターカルチャーの動きは、お茶の水でも起きました。学生運動!なぜお茶の水からなのかは分かりませんが、中大、明大、日大、ミドルクラスな大学が集まったエリアであり、情報が集中しやすかったのではと。神田書店街を控え東大も意外と近くにあったので理論が盛り上がりやすかったからもありました。お茶の水駅前がパリ・ソルボンヌ大学の運動に酷似していたので、カンチェラタン闘争と呼ばれる。

闘争前のお茶の水駅前は、凄くモダンな街並みでした。なにせレンガ通りでしたから。それが、学生運動の際、道のレンガを砕いて投石としたため全滅、その後タダのアスファルトとなる。駅前の画廊喫茶”LEMON”や、マロニエ通りのアテネフランス辺りでは、たくさんの素敵なお嬢さんルックを眺め若者の羨望を集める。(僕もその一人)

LEMON
(引用写真)

とまあ〜簡単に60年代昭和を撫でてみました。詳しい情報は、みなさんそれぞれで突っ込んではと。僕は、当時の昭和を古い映画で懐かしんではいますが。あれからもう60年は経っているのですから、早いものですね。団塊世代にとっても、はたまたそな子供たちや孫世代たちにとっても、気になる時代だったのではないでしょうか。

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